昭和57年04月10日 月次祭 二代
私たちは信心させて頂きまして、段々親の思いというものが分かって参りますと、どうでも親の願いに添いたいという思いが切につのってまいります。先ほども今信徒会長が今度の教祖100年祭の事を、皆さんにお願いしておりましたけれども、一つの大きな大事業を成そうとする時には、そこに運命を共に共同にして下さる同志が必ず出来て参ります。ためにもどうでも親の思いというものが分からなければ、どうぞ親先生の手足にならさせて下さいといいながら、親の思いというものが分からなければ。
それこそ親はこっちに行きたいのに、それこそ足はこっちに向いとると言う様な事になりますので、いよいよ親の本当の思いというか願いというもの、分からなければならないと思わせて頂きます。今日只今今度の記念祭の出版物を出させて頂くのに、親先生の過去3年間の御理解を委員の人でいろいろマトンさせて頂いて、今その原稿作りをさせて頂いておりますが、今日3年前の御理解を聴かせて頂きますと、私が4歳か5歳だったと思います、姉が二つ違いですから6歳か7歳だったでしょう。
ある暑い夏の日にそれまでは私共は姉弟は、あれが欲しいこれが欲しいと親にそれこそ求めた事は無かったんですけども、まぁその日は偶々近所の友達が皆んな、そのうキャンデーを買って食べております。ですから私達もやっぱり欲しかったもんですから、無理を言うて母にお願いをしてなけなしの10円を預かりまして、この内から5円のキャンデーを買いなさい。その当時は5円のキャンデーと10円のキャンデーでした。でその10円預かってキャンデーを買いに言ったんですけども。
子供ですからそこの理屈が分かりませんから、キャンデー1本下さいと言って、で10円のキャンデーを下さった訳ですね。お母さんこうやってキャンデー買ってきたと言ったらおつりはと言ったら、ない。そしたら母が怒りました。5円のキャンデーと言うとるんのにどうして10円のキャンデー買っとおるかというて、大変こう叱ってお叱りを受けました。その時に偶々外に出ておられました親先生が帰って見えまして。その様子をご覧になってそのまま御神前に額ずかれました。
そして神様にその事をお礼申し上げて、本当に子供も親と一緒にこの様な修行させて頂きまして、有り難うございますという内容の御祈念をなさって、そしたらそれこそ何処から涌いてくるか分からない様な、感動を覚えたとこうそういうあのう御理解をのお話を、今日纒の中に頂きまして、本当にあのう私達はまだ子供ですから親の辛さと言うものは分りませんけれども。
今になって思うて見ると本当に子供の十二分のキャンデー1本すらね、買い与えることの出来ない親の思いというものはどれ程であったろうかと思わして頂く訳です。そして親先生が仰るのに私はこういう修行の中にあっても、本当にどうしてこういう有り難い思いが湧いてくるのだろうか、それこそふつふつとしてこの有り難さが湧いて来ると仰る。ある日そういう過酷な御修行時代の時に、福岡から親教会にお参りになるその途中大城の駅で下車なさった時に。
ある方が親先生に今日は大坪さん私ゃ籏崎に東京相撲がきとる、それだ私はそこにそれこそ酒1升さげて照国にご挨拶に行った、そしてその時に朝稽古を見せて頂いたけれども、とてもとてもあの朝稽古あのう相撲取りどん、自分の子供にするもんじゃない、その稽古の激しさと言うたら、それこそ踏んだり蹴ったりする様な大変な稽古であったと。言う話を聞かれて親先生が、はぁ本当に自分のいまこの持っておるこの修行は、それこそ神様の目から見たら末は大関か横綱かと言う程しの期待があるればこそ。
これだけの御鍛え下さるんだという神様の思いを、その時初めて分からせて頂いてそれから、それこそ借金の断りをそれこそもうクウッとした様な思いで、行って居ったのがそれこそ親の思いが分かった時に、晴れ晴れとした思いで借金の断りに行った。そしたらもう大坪さんもう来んでもよかばいと、あなたのお金が出来た時に来て下さいと言う様な、おかげを頂いたと言う話がその今日のテープの中にありました。私達の心と言うものが本当に同じ問題で私達の心と言うものが、いろんな方向に転がっている。
親先生が特によく仰る言葉の中に、心は万代の宝だと仰る。それこそ親先生達の場合親先生の場合、心使いの名人だなと言う事を思うんですけれども。先日の私達その出版委員会で、幸福製造機と言う言葉を付けあせて頂いたんですけれども、まさに私達の心と言うのは幸福製造機であると思わせて頂くんですけれども、親先生達親先生の場合そこの場合が何時の場合で、もいろんな問題いろんな事柄があるのに、必ず幸福が製造される方向にいつもその操縦機が操縦なさっておると言う事なんですけども。
私たちの場合考えて見ますとある例えば難儀なら難儀があると、その事によって却って私達が不孝を製造する元に、そも心をしておるようなところがないでしょうか。親先生が良く仰る愚痴れば運命が崩れる、不平不足を言うと貧乏神がやって来るぞっと、きついと言う心を起こすと死神がやって来ると言う様に、それこそ折角持っておる万代の宝を心一つで総てを殺すとも仰る、それこそ却って不幸を作っておる自分の心で作っておると言う様な事があるんじゃなかろうか。
例えばそう言う様な親先生の難儀の中に、それこそ私共であるどうして私をこんなにそれこそ難儀をせなきゃならんのだろうか。石川啄木じゃないですけれども、働けど働けどわが暮らし楽にならざるじっと手を見る。親先生はそこの所を働けど働けどわが暮らし楽にならざるじっと心を見る。そこに私達が本当に私達の心を見詰めさして頂く、はぁ成程本当に自分が幸せになれぬはずだという原因を、何時も親先生の場合見極めて行かれたように思います。
こんど御本部参拝をさせて頂きまして、教祖の奥城で頂きましたのはあのう(=)イクオールという地ですね、あのう横に5+5=の=ですわこのイクオールという地を頂いたんですけど。私はその時はこれは信心のバランスだなぁと思ったんですね。バランスを取らなきゃいけないんだろうと、言う程度にしか思いつきませんで、というのは2、3年前ですけど、私がお夢頂きましたのに私達兄弟である実験をしておるんですが。
ある難儀な方がのお取次ぎをさして頂いて、そのかたをあのうチキリと言うんですか秤に乗せてるわけです。でその方を乗せて私達がまぁ夢ですから面白いんですが、有り難いと言う心をこちらに乗せtる明けです。ところがこちらの御信者さんの難儀の方がまだ重い訳ですね。だから光昭あと何グラムこちらに有り難い心を乗せなきゃいかんよ。と言いよるあのうお夢を頂いた事がありましたんで、あぁこの信心がバランスがとらなきゃいけないんだろうと思うておりましたんですが。
今日4時の御祈念が終わりまして下がっておりましたら、今朝ほどからずっと親先生熱発なさいまして、お具合が悪くられました、で今日はの月次祭はあんたが仕えてくれと言う報告を受けました。そうしてそのう4時のお下がりになる前に研修の時間を頂きました時に、今度の御本部参拝で福岡の伊藤さんが、本部でお知らせを頂かれておるのが、竹を頭に書いてあのう答えるという字ですね。
あう1合二合の合うという字答えるという字と、奥城では竹で編んだ亀甲マークに網ずぅっと網こんでいって、で籠を作っておられるお知らせを頂かれた。そして今日は蔵本さんでしたかね。今日こちらにお参りさして頂いてお知らせを頂かれたのは、ここの教会の横の川が大きな川になって、そこにまぁ大変な数の鯉が泳いでおるところのお知らせに頂いた。あんた達ゃどう思うのと言うご質問を受けました。私はその時ハッと思わせて頂いたのは、例えば神様から答えを迫られておると言う事なんです。
例えば間もなく仕えられます4月16日の御大祭は、あんた達はどう仕えようとしておるのか、開教15年祭にはどういう姿勢で取取り組もうとしておるのかと、と答えを元められた時に果たして私にどういう答えが出されるだろうか、じゃ若先生今日のお祭お願いしますよと、日頃親先生を現わしたい神様を現わしたいと言いながら、さぁ現わしてくれよと言われた時に本当に力のないものが、現わせない答えが出せないと言う事に、気付かさせて頂いた訳ですけども。
そういう意味で例えば今の合楽に於いて、本当にお徳を頂きたいという気があれば、本当に魚を得たいと言う思いがあれば、いつでも得られるじょうたいであるんだよと。親先生はそのう答えという字は竹上に竹書いて合うという字。それこそ神様に素直な心にて神様と合わせて頂こうと言う気になれば、いつでもそこにお徳が合楽ではお徳を下さろう、お徳をやりたいばかりのその手立てだけを説くんだと、親先生が仰います様に、その気になれば本当にそこにここにおかげが頂けるお徳が頂ける。
材料が転がっておると言う事を、今日の研修の時間に教えて頂いた訳ですけども。さぁ私が一辺下ってさぁ今日の月次祭仕えなさいよと言われた時に、ちょって二の足を踏みたい様な今の私の心の状態ではですね。なんという本当にそのうお役に立ちたい、本当に親先生を現わしたいと思いながら、親の思いを分からない本当にそこに、さぁ出番ですよと言われた時に力のないと言うか、それこそ5+5=幾つですかと言われた時に、さぁと言う様なそれこそ力のなさを、今日月次祭を感じながら感じさして頂きました。
一つ皆さんさぁ今度の教祖100年祭にしてもそうですが、開教15年祭ににしてもそうですが、皆さん神様からひとつ親先生から答案用紙を出されたと思うて、どう言う答えが出されるんだろうか、一つ自問自答して頂きたいと思います。それこそ私達は信心と言うものが楽しいものであり、愉快なものであり有り難いものであるというところまではひとつ身に付けさせて頂きたい。本当に信心と言うのが重荷になったり、しるしいものであったりしたのでは本当に勿体ない。
それこそ学者が眼鏡を掛けて年をとっても、眼鏡を掛けて本を読む様なあのう求道心と言うか、目的を持った信心をさせて頂きたいと思わせて頂きまして。今日は親先生の代わりを仕えさせて頂きながらさぁ神様から、さぁ答えを出してみよと言われた時に、本当に実力のない今日の様な私の状態じゃないですけども、恥をかかんでいい信心を本当に日頃にさせて頂きたいと痛感させて頂きました。
有り難うございました。